算命学での一日完命

一日完命 算命学

⑧一日完命による昇運
ここ迄は、宇宙の根源、大自然の法則、宿命、本来の自分等とすべて、目に見えない世界を語り、すべてつながっており、自分のものだと言って来ました。

しかし今一つピンと来なかったかも知れず
又、反発もあった事でしょう。当然です。
そこに世界中で唯一「主役」だと思っている「生ま身の貴方」が不在であり、「生かされている自分」が 脚光を浴びているのに、「生きている自分」は三分の一だと軽視され、疎外されていたからです。

これからの「運命、運勢」の世界でいよいよ出番が廻って来ますが、さて、どんな役柄でしょうか

ともあれ貴方が、いくら「俺が主人公だ」と主張しようがしまいが、真理は変わる事はありません。

見えない世界が実在し、そこで先ず三分の二の大筋が決まり、それが現実の事象になって現れてくるのである。

そして「実相界」、「霊界」とも言われるその世界が、現実の貴方の世界を動かすのは、極めて当たり前の様にためされるが、逆に現実界が元の世界を変えたり、動かしたりするのは
容易ではなく、労多くして且つ、効果は乏しいのです。

それでは、私や貴方は存在の価値がなく、ただ人生の傍観者であれば良いのかとなると、それが又飛んでもない話で

「明日の吾が身、未来永却に生きる自分の命の、実相界を創り出す素」となり

その栄枯、吉凶 を支配するポイントとなるのです

その意味では、「元の世界を左右出来るのは自分だ」となり、やっと主役の座を確保する事が出来ました。

御承知の通り、「自分」とは、生まれた日から、死ぬその日迄を言いますが、これは有限の世界で前(死)に向かった「一方通行の場」です。

故に、過ぎた事は語る事は出来ません。今日の今から死ぬ当日直前迄です。(故に玄明館では知り合ったその日に先づ貴方の死ぬ時を算出致します)

そして、如何なる人の人生も例外なく「今の一瞬」を綴り、「今日の一日」を積み重ねたもの以外は、何もありません。

「一生涯」とは、「ガケッ淵に立ち、一度だけ生きる吾」と読み、その濃縮した単位が「今日の一日の吾」な訳です。

この一日を 「一生懸命」に全力を出し尽くし、命掛けで生き
切る事を、玄明館では 「一日完命」と言い、私、霞堂の「生き態」としていますが、その由来は、人は動かし難い宿命の支配を受けて生かされて居るのだから、生来宿命の悪い人(悪い星の下に生まれ合わせた者)には、人生とは何ともやり切れないものとなって終い

「何の因果か知らないけれど」と身の不運を嘆き、天を恨んで生きる事になりますが、事態は決して変わる事なく、天の律法が貴方に同情したり、特別の配慮をしてくれたりも致しません。

結局は、泣く泣く宿命に屈従し、辛棒とあきらめの日々で宿命を消化するのですが、この「受け身」がどうにも腹立たしく、我慢なりません(私の事でした)

そこで三分の一の乏しい力であるが己の力で宿命の一部だけでも変えてみせようか、と頑張ります。自力創運と言い「運命」です
此の場合に使える力が「心の法則」であり、信じ切る世界」です。

暗示、潜在意識、宗教等を使って願望を実現させようとし、それなりに結構結果が得られます。(局部的,一時的に)

しかしそれを求めて悪いとは言いませんが、その根底にある「三分の一の我が求めたところの願望」が大問題なのです。

本当の「正しい願望」とは「与えられるもの」であり 「魂の底から湧き上ってくる叫び」の筈ですから、「我」の願いは大部分は天意に添って居らず、若し何かを得たとしても、最終的には帳尻を合わす為、代償を提供する破目になる事が多いのです。

そこで、最善の法として、一生懸命に生き「一日完命」を得る。が産み出されたのです。私は先頃の高尾師との対話にもある様に、生涯を病苦、と共に歩みました。

医者に病名をつけられ受けた治療が三十八症。内十年以上ー二、三十年間患った持病が十六種、(十三才、二十四才、四十三才、四十九才) と四度「もう駄目でしょう」と、主治医に宣告されましたが、その都度 蘇り、今還暦の星と共に輝いています。

幾つかある、延命壮寿法の中で、この誰にでも出来、自分が主役で出来る法を「最善の法」として提供する訳です。

然し、こ迄を読まれるとどなたも、「当たり前だ、そんな事は誰にでも判っている事で、お前なんかが言わなくとも」と思われる事でしょう。
実は私も同じだったのですが、その頭で判り切ってる事を顕わして現実の生活に生きる事は、何とも大変な難事であり、しかもそれを毎日続ける事は、大勇猛心が必要でした。

一日出来ては崩れ、又やり直しを繰り返し繰り返しと、ボロの射をムチ打ったものでした。

だが、一度身について終うと、それが当たり前であり、その有り方が一番楽であるから、「何故もっと早くから」と悔いたりもするのです。

「一日完命」の具体的な事とは

今の自分にとっての「急所」「最重要事」は何かを知る。

これぞと思う事には鉢を張ってぶつかり、どんな小さな事でも、その事に命を賭け全身全霊で当たる。

今の一瞬こそ、命と引き替えの掛け替えのない時と知り、明日死んでも悔いは残さぬ。

約束は絶対に違えず、特に時間は必死で守る。

我慢は自分がする。

嫌なものは人に上げない。

身辺に起こる、どんな些細な事をも一心に見つめ、その奥の天意を探る。

身辺の状況、環境の変化や時期による働きかけには、原則として逆らわず、流れに乗る。

態度は常に微笑みの心を現し、口に他人の善美をたたえる。

身辺の事象のすべてから 「有り難きもの」を見出す。

 

等々と、何の変哲もない様な事に、懸命に取り組んでいたら、何時の間にか身辺に去来する生存環境が 悉 く穏やかに納まり、「日々是好日」が与えられ 「有り難や」の海に浮かびながらも、「思う事ども、意の如く顕われる世界」が出来ていたのです。

この事を整理してみると実際に生きる事は、「一生懸命 」と言う意志想念に支配されて、(ここでも、思う事と行う事が一体であって始めて、「人」である)見えない心が見える行動を支配する。との法則が働いています。

「一生懸命は、ある偉いお坊さんが 「一生涯一つの事を、命掛けで頑張る事」と説いていましたが、それは多分、語源の「一処懸命」と取り違えているのだと思います。一つ事に捉われて 「ガンバル=我を張る」なんて生き方は、我執妄念の世界以外の何でもありません。

人に与えられた自然とは「複雑無類で、融通自在な身体と心を与えられている」が基本です。

ここで言う「一生懸命」は、一は絶対者で宇宙の本源を言い、生は生ま身の躰であり、生存期間中の己ですから

吾思う事(行う事)、命懸けであれば神に通ず」と解し

自分の願いは、そのまま神の意である「故に叶う」のが自然である
の世界が出来るのです。

一日完命を得て下さい。宿命の悪い部分が変わり、直ぐに効果が現出します。

コメント

タイトルとURLをコピーしました