算命学の宿命と運命について調べてみた!

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宿命と運命

算命占星術は、人間が如何に逆らっても到底及びもつかない巨大な「大自然の法則と経輪の中で、うごめき、生きる、人間の真の生存の意義と、個々の人が担う「生命の役割り、使命、(宿命、天命)を解明し、その人の一生涯の起承転結、栄枯盛衰、を明示した上で、その人が運命、運勢を使って、如何に最高に、宿命を消化(究極の幸せを得る手段)して行くかを善導します。

宿命とは、この相対の世界(現世)に生きる命の、「知情意」に拘わりなく、その人に対して定められた「約束事、決まり事」とかの「さだめ」、を言い主たる天に起因する「天意」と、己自身の、本命に基づく「人意」の宿命とで成ります。

天意の方は、その人の生死と時代と環境を支配します。何時、何処で、どんな時代を、どの期間に亘り、どんな人として何のために生きるか等です。

天意

次の人意。それは 宿業とか宿緑等と言って、今、ここに一人の人が存在する為に、絶対欠く事の出来なかった二人の親と、その両親と、その又親……と繋がる何十億かの先祖が作った「命の原因」と、何度か、何十回か生き替り死に替りし作ら、自分自身が前世で積み上げて来た諸原因に対する結果や答えを出す「サダメ」とその役割りを果たすに要する。

性質·気質·と能力、更に今ここに自分が存在する事によってのみ生まれ得る
子や孫や、幾十億かの子孫の、「命の貴陵と優劣、盛衰」を左右する役目をも備えている故、一人の人が綴る一生の、命の意味の重大さは優に、地球の星一個にも劣らぬ位のものです。

地球ひとつに匹敵する
それ故にこそ、その大部分は、簡単に変えたり消したり、と安直に操作出来る様なものではなく
その総称を 「宿命 」と言い、人の一生の約三分の二に、影響、支配し、これが、貴方が自分の意志にはまるで無関係に、生まれる可くして生まれてから、何らの意見や希望を差し狭む余地なく、死ぬ可き時に死ぬる迄の間に貴方に与えられた「生涯の使命」であり「天命」とも言う貴方の為に書かれた「命のシナリオ」です

 

最近私が 領導した御一家のお爺さん。明治の末に東北地方の、寒村の貧農の家の三男に生まれ、
身一つで東京に出、喰うや喰わずの青春期を送り、あらゆる仕事に振り廻され年ら、どうにか妻帯
直ぐに二人の子の親となるも、親子四人が口を満たすには除りにも苛酷な世の中を恨み、幾度か死を思いつつも、子供の寝顔に阻まれ、毎日三時間の睡眠で、やっと一日一食は白い米の御飯を戴ける様になった矢先に、葉書一枚で軍隊へ。
人が地獄と恐れた軍隊も、此の人にとっては生まれて始めて、衣食住の心配のない天国、一番考えるのは、国の事でも敵の事でもなく、東京に残した妻子の身の上。

そして除隊になり、裟婆に戻って、又五年間の塗炭の苦しみを受けるも成長した子供を見作ら、家庭を味わい、苦が楽に変わって張りのある日々。

然し、又も召集を受けて弾丸(たま)の下へ。でも、今度はどうしても生きて帰って又あの家庭を、と思うと恐くて恐くてたまらない毎日。

何度かの紙一枚の差で越えた生死の壁を喜ぶ間もなく、届いたのは自分の命とも頼み、愛した子供の一人が、自ら志願しての戦死の便り。
死にたくも、もう一人の子と妻の顔がちらつくし、怒りをぶつけ様にも、除りにも強大な敵との戦力の差に、身を縮めた憤懣の日々。

悪いとは思い年らも、誰よりも喜んだ敗戦の日から東京行きの汽車に乗れる日迄の長かった事。
宙を舞って帰った吾が家は、防空壕だった穴の上に、トタン板が乗せられただけで、電気もない穴ぐらに、ゼンソクと栄養失調の身を終日横たえ作ら、夫の帰りだけを頼み、幽鬼の様に変った妻と、その妻を守る為に、ルンペンか、泥棒にも近い生き方をしながらも、生き延びてくれた次男の姿を見た時から、この人の人生は、又三度目の、最も厳しい戦場と化したのであった。

が今度は鍛え抜かれた男のたくましさと、幾度か地獄へ出入りを繰り返す裡に 培 われた、フテブテしさと鋭い感、それ等が復興に湧きたつ社会と時代の波に乗せられて十五年の後には小さい町工場の社長さんになったのだが。妻の死を見て、寸時虚脱の淵に身を沈めた時、気持の荒んでいた息子が、無謀な事業に失敗し、妻子を残して蒸発。

その穴埋めの為に、それからの十年をついやす内に、脳益血の発作。
幸いにも、命を取り止め、三年で仕事は出来ぬが人の手を借りずに、身の廻りの始末を出来る迄になり得たのは、亡妻の加護か戦いの人生でかち得た不屈の精神力のたまものか。

仕事は息子の嫁がしっかり引き継ぎ守ってくれている内に、二百坪の土地が買収に掛り、巨大な財となったので郊外の代替地にマンションを建て、移ったら、すっかり立ち直った息子も成功して帰って来て、今は三人の孫も成人し、目出たし目出たしの筈なのだが。家族の皆のいたわりを得ても老境は日々空しく、今は只、念俳三昧の裡に「その日を待っている」と言います。

この人に恨みはなく、そして悔いもありません。宿命に翻弄され作らも、全力で駆け抜けた男に、爽やかな悟りが柔らかい光となって、身を包んでいました。

これが、宿命を消化して、霊格を高め、人生の使命を果たし、幸せを得た人の一つのモデル
です。(吉凶はバランスがとれており、自分イコール家族で答えは最後に出ます)

この人の一生は、確かにこの人自身が主役として踏破しました。然し、シナリオは自分が書いたものではありません。

「人の一生とは」、限られた自由の中で、大いなる意(宿命)に押し流され作ら、一瞬の静止も許
されず、前= (死)に向かってしか進めない、オールブッツケ本番を重ねて綴る芝居なのです。

人生は芝居
主役である貴方は、与えられた役を懸命に演じる役者であり、如何に観客の笑涙を得る演技をするかに工夫や努力をする訳であるが、それも決められたストーリーの中での事であり、ストーリーを拒むならば役をおりる(死)しかありません。

このストーリーが「宿命」で貴方の演技が「運命」です。役者の芸が脚本演出にそむけば良い芝居になる訳はなく。

俺の人生だから、「俺が、自分が」。と思う程、人生「思う事、思う如くならず」で、何かと意に反する事が多くなるのは、その故であり、自分を主張する程、宿命とのギャップは大きくなり、不遇· 不満の一生となる訳です。

しかもこの「俺が」の拠り所である自分の肉体生命ですら 「吾が意を以って生かしてる」と言えるのは、せいぜい三分の一。生きる死ぬはむろん、病む直るもしかり。

心臓は一日十万回、呼吸は二万五千回もの仕事を頼みもしないのに年中無休で私を生かす為に提供してくれている等を考えると
主要な事は皆
吾が意に拘わる事なく何者かによって生かされている」と言う事実に対しては如何なる抗弁も許されません。

この或る力が宇宙意識と言う「自分の中の神様(三分の二の本当の私)」、であり、その命の目的と必要な生存条件が「宿命」と言う自然の恵みなのです。

この宿命を帯びた本当の私を基に「俺が」の三分の一が頑張って「運命」を選び、泣き笑いの人生を綴って行くのが私であり貴方でもある 「人間をありのままに見た真実の姿」であってその生かされて生きる様を論語では「死生命あり、富貴天に在り」と断じ、人の最高の生き方について

老子は「無為而為」と一言にして喝破しています。

 

あああ

 

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