算命学が教える『幸せ論』

算命学が教える幸せ論 算命学

幸福について

(福寿覚とは)
人は、誰一人の例外もなく「幸せ」になりたいと願っています。
幸せは「仕合わせ」とも書き、合(天地)に仕へる、自他が仕へ合う、仕事(生き方)が合ってい
る等の「言霊」の意味を持ち、更にひと捻りすると「死吾和せ」であり、死生一如の状能を言います。

では、「貴方にとっての幸せとは」と質問されると意外に鮮明な答えに出逢いません。
まず
お金」、「出世」、「良い結婚」、「生き甲斐」、「健康」、等々と答えますが

その殆どは、自分の心や知能等で知覚出来る自分 (三分の一の表面的な私)が、欲するものに属していて肉体生活が終わると共に消滅するものばかりを言います。
しかも一時的な状態や、自分と言う総合体に対しては、部分的なものばかりですから、若しそれ等を手中にし得たとしても、心からなる満足や幸福感は得られ
ず「こんな筈ではなかったのに」と又、更なる欲望をかき立てるのです

「我と執着 」の世界であり、極端になると、本来の自分に与えられている資質の、非常に乏ぼしい面で無理な夢を持ち、目標を立て、努力、苦闘を金科玉条として追い掛けたり、及ばずと知ると自分のせいとはせず
色々と除難除霊や開運の法や、神仏の力を頼んだりして迄叶え様とします。

この場合、人間の「心の偉大性」により、少しは、或いは一時期は、叶うものですが(暗示、潜在意識や信念の法則とか、一部信仰の世界)
その代わり、必ずやその無理に得た物に釣り合う 「何か」を代償として失わなければならず、この大宇宙の法則は、100%狂う事はありません。何故ならば、
吾々が住む「相対有限の世界」はバランスが保たれてこそ成り立つのですから、バランスを崩せばその分の修復を求められるのは、理の当然です。この様に、死と共に消え去る空虚なものを追い求めながら、生涯を通して空転の修羅場を駆け廻るのを「餓鬼道」と言い、その錯覚に気付かぬ人には、永遠に幸せはないと言う事になります。

では、本当の幸せとは何であるかとなると、前項で「自分」とは、宇宙の本源につながる魂とか、
自分の中の神様と呼べる三分の二の自分と、表面現象の世界を知と意によって生きて行く、三分の一の自分の複合調和体が、肉体と言う 「器」を使って生きていると言い、生かされて生きる「ほんとうの自分」、が主人公であるとも書きましたが、
宿命と運命も同じ割り合いですし、幸せについても、「真理の法則」は、全く同じ作用をしているものです。

つまり、三分の二の本当の自分を悟り(覚を得る)、これが求めるもの=自分の魂が歓喜を覚える
「何か」を求めて行けば良いのです。その求めて行く課程と、得たもの、満足感こそが貴方にとって
の、「ほんとうの幸せ」に他ならず、その得たもの、中には、前記の「消え去る物の幸せ」もきちんと含まれているのだから、三分の一の自分も充分結果として満足を得る事が出来て、心の底からの幸福感に浸り「福」を得ます。
しかし、それが具体的に貴方にとって何であるのか、と進めて行くと又、
誰にとっても大変解り難いものとなって終います。何故ならば、自分でもどうにもならず、捉えどころのない自分の実体を、三分の一しかない自分の頭や思考で捉え様とするのですから、自分自身を悟(し)らないま、に一生を終わって終う人が、大多数であったとて別に不思議な事とも言えません。
今、「悟る」と書いて「シる」と読んで頂きましたが、ほんとうの悟り(覚り)とは、この自分の真実が見え、その自分を通して一体であるところの宿命が、判れば良いのですから、少しも難しい事ではないのです。

今、座禅、読経や信仰的諸行を積む人、ヨガ、瞑想や霊的行法の場にあって、
仲々自分が開かない人は、時々私のところへ、遊びにいらっしゃい

普通、当り前の「苦楽死(暮らし)」の中から、深い悟りを得させて上げましょう。
幸せの話が少し横道にズレた様に見えましたね

でも、この「悟る」事によって、老子の無為而為に生きる処に到達し。即ち「究極の幸せ」、
に安住して「日々是好日」を得不老壮寿(寿)を手中にします。

故に、本当に幸せになり得る人とは 「自分を完壁に知り得た人」に限る、が第一の条件で欠く事が出来ず、これを「覚」と言います。

算命占星術は、貴方と御家族の宿命を先ず算出し、それを判り易く説明して差し上げる事で、貴方が「覚」に至るお手伝いをした上で、それを現実生活の中に顕現し得る様に良導します 「覚の体現」です。
その結果、心が喜びに満ち、寿命、健康と人や物質に思まれた状態、それが「寿福」です。
「福寿覚」を得た貴方を写し出してみると

時代や環境に支配されず、自分や他人、未来や過去からもすべて解放されて自由に生きている。

自分が与えられている素質、天分に従って、心楽しく燃え続けている。

何となく良い人が寄って来て、悪い人が何時の間にか遠ざかって行く。

今迄は、吉だ凶だと、一喜一憂していた事が、今は走馬燈の絵の様に走り過ぎて行く。

身の廻りのものがキラキラ輝いており、自分も一体になって光っている。

日常の細かい事が、何もかも思っている以上に、うまく運ばれて行く。

必要なものが、必要な時に、必要な分だけ、きちんきちんと入ってくる。

如何な問題でも、瞬間にパッと判断がつき、100%に近く誤る事がない。

人の心や、考えている事が、鏡に写ったみたいにスーッと見えてくるが、その事で自分が動かされる事はない。

健康で長生き、しかも死ぬ直前迄、普通の暮らしをしている。

笑顔が美しく態度、顔つきが柔和で上品になり雰囲気が暖かい。

身近な人や家族が自分と共にいつの間にか昇運している。

 

等々の人で、「見神実を得た人」とも言います
とまあこんなところですが、この中に含まれる現実的な「もの」については、一人一人によって、
皆その質、量、と取り方が違い、価値も異なります。
故にここではその、見出し方、取り方の法則についての説明で先へ進みます。問題は、大きくて難問に見えますが、意外と簡単なのです。紙とペンが要ります。

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