『五』という数の意味
「五」という文字は、二と✖️との合字で、二は天地を表わし、✖️は陰陽の天地間に交わることから「五」の字となったようですね😸
『詩経』
「大雅・旱麓(かんろく)」にはこのように書かれてます
「鳶(とび)飛んで天に戻(いた)り
魚(うお)淵(ふち)に躍(おど)る。
天行(てんこう)は誠に健(すこ)やかなり」
と謳(うた)われているように、上古の人びとの生活は、宇宙の創造活動と一体のものでした。
そして彼らはまず最初に、太陽が東から昇って西に沈み、東西二つの方位があることを知るようになります。
さらに人びとは、昼と夜とで一日が成り立ち
春には東風が吹いて草木が芽生え
秋には西風が吹いて実を結び
春の木の葉は青く
秋には枯れてやがて白くなることを発見します。
こうして人びとはまず東と西という二つの方位のあることを知った後に
春・秋という二つの季節と
昼・夜という二つの時と、そして青・白という二つの色と
水・火という二つの生活必需品など
「二」という数を形づくります。
しかも、春季が到来して木々が青くなるのは、陰陽の交合で暖かみを増した太陽が、東方から昇ってくることと結びついており
方位(空間)と季節(時間)と色は、深くかかわりあった一体のものだと考えられていました。
宇宙の創造活動によって、天と地の間に創り出された人間は、地上での日々の生活を重ねるうちに
自らの家や集落や都邑や国を造るようになりました。
そして新石器時代中期(前4000〜前3000年頃)には、転々と移動する狩猟生活から、一定の地域に居住する農耕生活に移ります。
新石器時代末期(前3000〜前2000年頃)になると
宇宙に「二」という数のあることを知った人びとは
さらに生活を重ねるうちに、東から昇った太陽が、南を通って西に沈み、北には行かないこと
したがって、方位には東・西・南・北という四つがあることを発見します
「四位」(四方)の発見から少し遅れて、人びとはまた、太陽の動きと寒暖の変化に呼応して、季節にも春・夏・秋・冬の四時(四季)があり
色にも春の青🩵と秋の白🤍だけでなく、夏の赤🩷と冬の黒🖤の四色があり
生活必需品としての資材にも、水・火の他に木と金の四材があることを知るようになります。
天子が宮殿の東側に青色の門を建て
南側に赤門を、西と北にはそれぞれ白と黒の門を造って
春がくると城の東門を出て
郊外で、東の方位を司る帝王を祭った後、春の気を迎えて農事の安泰をお祈りし
夏には南の赤門を出て同様の儀式を行なったのも
この頃、つまり西周時代(前1050頃〜前770年)のことでした。
さらに春秋時代(前770〜前403年)になると
人びとは、方向が東西南北の四方に向かって、内から外に展開しているだけではなく
東西南北それぞれから内に向かっている方向のあることに気づきます。
そしてこの方向を「中方」または「商」と名づけました。
この五番目の方位は、人びとが自分自身の存在に気づいたことと深くかかわっています。
外に向かうのではなく、自分自身なり、自分のいる位置なりに向かって、外から内なる中心に向かってくるこの「中方」という方位は
先に陰・陽の働きを木の営みを例に述べた際の
陽(顕現・分化・発展)に対する
陰(守静・統一・含蓄)の作用を表わす方位なのです。
それは、人びとがいる場所や自分自身に、すべてのものを統合し、収斂(しゅうれん)し、包含し、内蔵する方位、いわば宇宙の中心を示す方位なのです。
このように五番目の方向を発見することによって、人びとは初めて「五」という数のもつ、非常に尊い、特別な意味を見出したのでした。
東西南北に「中方」(商)という五つの方位がつくられたのに呼応して、青色と赤色、白色と黒色の真ん中に「黄色」が加えられ
季節では春夏と秋冬の真ん中に、あるいは春夏秋冬を結びつけるものとして「土用(どよう)」が設けられ
生活に不可欠な資材である水火と木金の真ん中に「土」が加えられ
天の五星の名称も木星、火星、土星などと改められるようになります。
後述のように、土用を四季のそれぞれの終りに置くなど、この作業は紆余曲折を経つつ、西周時代の後半から前漢末(前770頃〜後8年頃)にかけて続けられます。
そして、五番目に新しく加えられた「土」や「黄」などは、その後、方位や季節や、色や材など、それぞれの分野で最も尊く重要なものとして扱われることになります。
中国古代の最も秀れた帝王に黄帝(こうてい)の名が冠されているのは、その好例です。
このようにして、人びとの日常生活に不可欠な方位や季節、色や材などが、「五」という数でそれぞれまとめられ、それらすベてが、やがて日常生活に最も身近な水・火・木・金・土と結びつくようになったそうです*ˊᵕˋ)੭
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今日もお目を通してくださりありがとうございました😊



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