算命学|五つの柱

五つの柱 算命学
伊勢神宮 - 12

⑫ まとめと玄明館玄義
ここで今一度全体をまとめてみましょう。 と言っても本書は一貫して殆ど同じ事のくり返しですから、まあオサライと思って下さい。

世間には真理を唱え、幸せを求めて行く説は、人の数程たくさんあり、貴方がどの説を以て吾が為の要とするかはその時の貴方の霊等の位置によって与えられる出逢いと縁機です。

機が熟し究極の幸せに向かう事が許されたお方は、どの道から求めようとも行きつく先は一つ、即ち本書での「天を覚り己を悟って、自然に従い、自ら輝く実戦道である」 に帰着致します。

故に本書を手にして下さった御縁を天意と受けて、この仙道神占術によって貴方が「最幸の世界」へと向かわれる事を願い乍ら先へ進めてみたいと思います。

人には何か知ら目に見えない大きな力が常に働きかけています。内からも外からもですね。

これは吾々が考えたり努力して生きて行く力とは比べものにならない巨大なパワーで人を押し流します。

人々はそれが余りにも人間離れした恐ろしい力なので神仏とか運等と名付けて、唯、手を合わせて
拝んだり祈ったりするだけで、正面からその正体を見極めようとはせず、為に何時迄経ってもその実体がはっきりしない言わば「恐れ多い他人様」なのです。

こちらが他人様でいるのですから、あちらの方でも余り親身になって力を貸してくれないのは言わば当たり前の事です。

神仙術は、その神佛が宇宙や自然界全体に意 (気)として働き、事象となって現れたり、万物の起承転結 栄枯盛衰に作用する 「相」を通して、神仏を手に取り示し、同根異体である人間の実体をも解明した上で、その人に関わる神意仏心を「宿命」と名付けるのです。

「宿命は「星」 と言う記号によって解読され、且つその記号を計算する事でその意志と法則を知り、更に星の作用に精通すれば、その力と方向を操作(コントロール) する事が出来ます。

つまり宿命(神仏)、そのものを変える事は出来ないが、宿命から顕れてくる形「運」を自分の為に利用する事が可能となり、 それは常識を越えた巨大な力なのです。

人はその目に見えぬ神秘の力を味方としなければ例え何世代を重ねようとも絶対に「真の幸せ」に到達することは出来ません。

人間力だけでは駄目だと言う事です。 故に貴方にとっても真の幸せとは宿命(神、自然) に近づく事であり、そこは、すべてが調和し、充たされている世界なのです。

○ここで少し流れを変えて「玄明館霞堂」の「根本義」を御披露しておきましょう。
玄明館とは俗に言う学舎道場や塾的な建物ではありません。 私霞堂と言う霞中の隠僕が「今の一瞬を吾が命輝いて在る」を元として
日常普段のくらしを最高の行修の場に貸りて目指す「玄は」 本源の太極―神で「明」は、この身の悟り、「館」は命の器肉体を意味し即ち、私自身の総称ですから、例え野に在り山に入り励む時や、居にひそみ観を行ずる時も、又客と遊び、 人を訪ねる場合を問わず天と地の間、霞堂の在る場を以て玄明館と定義いたします。

玄明館の論拠動根 (論理と行動の基)は、次の五つの柱で成って居ります。

五つの柱

1は第一章にある「鬼谷子」が雲霧山に籠り成仙(仙人になった)して以来二千余年に亘り
口訣行導(直接指導と口から口への教へ継ぎ) されて来た仙道の行修法と、老子、荘子の「道」の宇宙観(神観)と「無為而為」の人間観、そして算命学の自然思想に基づく 「占星術と気による相術」です。

その内容は皆さんには直接今役立つものではなく又長々と面白くもない超難論を書き立てても御迷惑なだけ故飛ばします。

2の陰陽論、五行説も大体の語意は皆さん御存知と思われるので省きますが、 何にしても古来より
今日にあっても、占いと名の付くものに(東洋のです) この哲理を使わぬ法術は皆無と言える位で
す故「仙道神占術」もそれを占技占法の根底に置いています。

3の無常観と因果律は、本来は1と2の中にすべて包含されているのですが、事更にここに取り出
したのは、占いの技法を現実の生活の場で顕彰せしめる為の主柱として活用する故です。

ここ迄の123柱は、宇宙の本源を解き、その動態の全容を明かした上で、森羅万象に拘わる法則(律)を示すもので、ここでは人間は主役の座にありません。即ち貴方が死のうと生きようと、地球は回るし陽は昇ります。 大自然の中には人にとっての幸不幸は本来無く、幸不幸は人の側の主観に

過ぎず、人とは時の流れの中にあって止まる事のない一気象(気の固まり) で、その生も死も、幸も不幸も確実に流れ、消え去る影であるとなります。

然し人も又明らかな自然の中の実在であり、宇宙の中の微小の一星なりとし、 地球生態系の一生物として他との関わりによってのみ生存を得ている。

故に他の自然や事物を調べる事によって、 人の本質本体も算命する事が出来ると言う 「宿命の世界」
が顕われて来るのです。

そして、如何なる真理高説とも異なる最大の特徴は、その哲理の柱の中に「仙道」 と言う体得実証法を備えている事です。 如何に完璧な論理、真法を以て神を自然を宇宙を解明し得たと思っても、「気」を躰で以て感得体知しない限りは、只の頭の体操、智能の遊びにしか過ぎず、何ら身にも世にも益する事のない遊言の徒輩、屁理屈屋の世界です。

だから気を使える者以外には「宿命」を扱う事は不可能であり、真の幸せを識る事も、導く事も
出来ません。
4技法
人間観
現実観
5 実証法
幸福観
123は普遍的な真理の世界でした。 然し宇宙や自然が如何にあろうとも神仏が実在しようがしま
いが、今ここにすべての存在を認識し、 思考を廻らす事の出来る 「吾」があってこそであり吾が不在の世界は一切が「無」 です。

ゆえに「吾故の宇宙であり、 吾こそ天地の主宰者」でもある訳で

今ここに貴方が居ると言う事は貴
方が天と地を指差し「天上天下唯我独尊」と呼んでいる姿であって、既に「即身成仏神人合一 」を
得ているのです。

ですから4と5はすべて 「貴方にとっては」の世界で然も貴方が肉体を持って地上での生活を営んでいる認識、実証の世界故「貴方の為に、自然は、神仏は如何にあるか」を求める霞堂独得の場でもあります。

この45は人間界であり、人は地上での現実を重ねる事によって自ずから直我が顕れる仕組になっているのです。

4の技法は「領導と体法」から成っており「領導」は、先の(第一章)「算命学十六元法」を駆使して、天地の律法 自然の法則を貴方の為に、利あらしめる技法です。

ここでは大自然と人間が一体になって躍動し、これ迄の幾つかの例話に現れた様な奇跡や大ドラマをいとも無雑作にやってのけます。

十六元法の詳細は、ここで開帳する事は不可能ですが、免に角、天地万象に遍通し無限全能の技法であるとしか言えず私とてもまだまだ半可通の域を抜けられません。

算命学十六元法

例えばこの技法のすべてを使って一人の人を占うと、七年の歳月を要しその人の前後七代に及ぶ人生を詳細に明観する、と言われています。

次の「体法」は1の神仙道の実修行法であり、気功、導引、呼吸、統覚法等であり、これも二千年
余をかけて体系化されたものですから終りがありません。

然し、ここで腹脳と右脳を目覚まし、俗に言うところの「超能力」を得なければ、すべては空論の世界となるので避けて通る事は出来ず、又これが123と45の調和融合剤の役割りも果たしているのです。

5は実証法です。 これは当り前のくらしの中で真実を行い、明らかな結果を出して、真理を証明し、体得するのです。

「すべて自分の躰で」 でなければいけません。何故ならば貴方の一生の内に関与するすべてのこと、習い覚え、鍛え長じ、老い病む、死ぬも、喜び、怒り、泣き、苦しみ耐える等のすべては自分でやらねばならぬ事ばかり、どんな些細な事であっても誰かが代わりに患ってくれたり痛んでくれる等はあり得ません。

その「躰で、普通の生活の中で」と言う意味は「貴方に対するすべての結果(答え)はその肉体生
命と生活の上に顕れるから」なのです。

どんな高度な学問も、高邁な宗教心や絶対の成功法や行修法であってもすべては肉体と生活を如何に高めるかとの目的の為にある訳ですから、日常実生活の上にその効果を揚げ得ないものは、貴方にとっては、ほんものではない、と言う事になります。

但し、ここで言う生活と肉体生命の中には当然それに見合う精神性の高揚も含まれての事を付け加ええます。

以上の五本の柱で建てた館が玄明館であり「究極の運」と「不老荘寿」と「快心解脱」を共に目指し、領導と同修 (後記)を手段として推進する事を御案内しました。

○では、ここでもう一度「まとめのオサライ」に戻らせて頂き、 最後の招運の極意迄を進めて参ります。
先づ前項4に出て来た人間と宿命からです。
人が死んだ後の魂とか生まれる前の生命は人間とは言いません。

人間とは 「出生から死去迄」の「間を生きる人」であり
又「人と人との間で暮らす者」で
先祖と子孫の間をつなぐ者」とも言え
更には「天と地の間に位する人」 で
且つ「神と獣の間」にあって向上すれば神と化し、堕落すれば獣ともなり得ると言う生き物です。

この肉体を持ち地球生態系内で生きる動物種族の一人が自分なのか、 前後生を含めた永遠の生命の中での地上人間なのか、両論あって未だ科学も宗教も万人が納得する確たる証を明示する事が出来ず、何となく妥協した曖昧さの中に両立しています。

と言う事は、人は二千年以上の歳月と総智を重ねても、未だ大切な「自分とは何者であるか」を知らぬ未開の動物である事になり、幾ら「万物の霊長である」 とか 「地上における最も進化した生物だ」 等と威張ってみてもそれは鳥や獣や草魚に対してであって、現実は己自身も判らず、益して明日の事等は見当もつかぬ憐れな凡男愚女の事を言うこととなりました。

玄明館の人間観は、当たりまえの事実をありのままに見て、そのまま実証とします。 つぎの様にです。

私とは父の精子と母の卵子と言う実在の物質が六十兆の細胞に分裂生育したから出来上がった生命体である。
故に父母は確かに私の中に生存して居り、否私の肉体とは父母そのものである。 父の中には父の両親が生きて居ったし、母も二人の親の顕現なのは当然の事実で、それぞれの親には又・・・・

・・と果てしなく広がり続き、今の私から三十代さかのぼった平安時代頃でさえ、親だけ数えて六億六千万人とか、更に人類が出現したらしい五百万年前迄辿ると、とても勘定も出来ない数の親がいた

これは当り前であり事実です。 若しその中の一人が欠けていれば今ここに私は居る事はなく、 又その中のたった一人でも違う人と結婚していたらここに居る私は全くの別人でしょう。

逆に私は結婚し、妻と合作で成した一人の子の中にも、まごうかたなく私と妻の肉体が生き続け、そして孫から子孫へと流れ、やがて人類が消滅するその日迄、私も妻も、 その他多勢の先祖や子孫と同居し乍ら、生きて行く事になります。

故に、本体の方の私の地上での生涯は明らかに氷山の一角であり、過去から未来への継ぎの一点でもありましょう。 それに加えて、私と妻の肉体生命が子供に送り込まれた時、私たちは精子や卵子の現物とは別に様々な希いや愛と、 そして無数の親から受け継いで来た、気質、体質や宿業等も当然ワンセットとして送り込んでいます。

だから私の精神や智能、 思想も、出生後に身の周りの人や環境から真似たり借用したりして作られたのはほんの一部であって、大部分は幾億兆の親の思いの総合凝縮されたものが主体となっている筈です。

私がそうであるから同じ人間である貴方や他のすべての人にも皆共通した当たり前の真実ではなかろうかと思います。

だとすると私も貴方も仲々どうして唯者ではなく、永遠の時間と無限の拡がりを内にもった霊妙神秘な存在であり、それは、宇宙や大自然界の姿と何ら異なることのない偉大な存在である事を証明して居り、先に「貴方は、今在る事がそのままに神であり、即身成仏は既に達して居る」と申し上げた由縁なのです。

然し人は誰しもその極めて当たり前の事を実感として捉える事が出来ません。 それは何故かと言うと、私の躰の左半身が父の肉体の成長体で右は母のそれであったとすればもう少しはっきり己の実体を自覚し得たのでしょうが、親である精子、卵子は母の子宮に宿ると同時に陰陽和合々体して「私」と言う生命に化けて終い、姿容を雄か雌かに変えて終うので、以前の事を忘れて、つい真実の己を見失ったのではないでしょうか。

この私の中に確かに宿っていながら自覚出来ないほんとうの私、無限無窮の命が生かされて行く状態を「宿命」と言い、母の胎内で化けて私になり、誕生日から棺に入る日迄を己の意志想念と肉体を使って命の火を燃やして行く状態が「運命」なのです。

宿命と運命は肉体と言う器の中で一体の命となって地上生活を送り 「死ぬまで生き」且つ「死なされる迄生かされる」のが人に対する共通の自然です。

自分の中に居る「ほんとうの自分とか、もう一人の自分」と呼ばれる宇宙―自然魂とつながった
「宿命」は三分の二で、 天の必要性と租霊団の愛を受けており、 本当は自分の中の主人公であって本来恵まれた生涯を送る 「さだめ」を与えられているのですが、 これがなかなか自分の表面に立って活躍する場を与えられません。

強力な防害者が居るからで、それが人間の幸せにとってのサタンであり悪玉です。 この者は肉体と言う小さな住居の中で主人公の魂と同居しており、本来は三分の一の
領分と力しかないのに現実と言う社会環境や物質と言う科学文明の応援を得て、その力以上の働きをするので、つい魂の方は萎縮してお腹の奥の方へ隠居して、ひっそりと暮らします。

大体にこの魂は力があるのに争う事を好まず、目立つ事を嫌う質が強く逆に悪玉の方は弱いくせに
負けまいとして事毎に突っ張り又、自分をより以上に見せようと目立ちたがり乍ら「智能、感情、欲望、我執」 と言う物を武器にして表面に立って「人間」を支配しており、この手の人間が「文明人とか知識人」 とかを自称する 「近代型智能派人間」であり、私や貴方も今迄所属しておったし現代の社会の主流を成している人間群です。

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