四神相応術は『京都(平安京)』だけではなく『東京(江戸)』の土地にも施されていたことがわかりました♪
400年前は関東の田舎だった『東京(江戸)』を100万人の大都市に変えた理由と歴史的背景について公開させていただきます(^^)
四神相応の地|『東京(江戸)』 四神相応とは?
風水には、「四神相応」という考えがあり四方位を鎮護する神獣と地形が合ってる土地を「四神相応の地」としてあがめられました。
東の青龍・西の白虎・南の朱雀・北の玄武
中国最古の家相書「黄帝宅経(こうていたくきょう)」にある「宅
は人の本にして陰陽の宅は即ち竜なり」に始まる文言を出典とし、 以来今日迄流儀学統を問わず宅造選地の極意とされていて四方位には東の清流、南の池、西の道路と北が山と言う地形が 配当され、地上世界での理想郷を形成し得る
門外不出の密法は京都御所と江戸城に施されていた!より引用
有名な都市として中国の長安と京都平安京があります♪
四神相応の地|『東京(江戸)』を大都市に変えたのは誰!?
1600年代に江戸を大都市に変えた人物は?
そう聞かれましたらみなさんはどのように答えますでしょうか(^^)
それはもちろん『徳川家康』だよ♪
かわせみくん、正解!
徳川幕府300年の礎を築いたんだもんね(^^)
その時の時代背景をもっと調べてみようか?
ボクも手伝うよ♪
時は1590年、豊臣秀吉が天下統一のリーチをかけた小田原攻めに成功したあと
一緒に戦に加わってた徳川家康に対して秀吉は次のような言葉でこんな言葉で関東への国替えを命じたといいます。
今でいう『左遷』です( ノД`)シクシク…
政治・経済の中心である首都圏(京都大阪)から遠くなるだけならまだしも
当時の江戸は葦の生い茂る低湿地帯がどこまでも広がり、わずかに寒村・寒漁村が点在するだけの未開の地だったからです。
秀吉にとってはやっぱりキレ者の『家康』が怖かったのでしょう
でなければこのような人事異動を命ずるわけがありません
ですが、秀吉の命令で江戸に決めたわけではなく他にも候補地があったそうです。
①小田原
②鎌倉
家康の家臣たちは当然、都市整備がなされている場所にするものだと思っていたようです
小田原城は『難攻不落の城』と言われていたし
鎌倉といったら初めて『幕府』が開かれた場所ですので武士にとっては『聖地』のようなところです。
家康は小田原も鎌倉も攻められづらい利点はある代わりに『発展』も望めない
都市計画を進めたり城を作ったり各方面のエキスパートの集団であったことは推察できるのですけど
ある黒幕の助言が家康の江戸入りを決定づけたそうです。
その黒幕とは『南光坊天海』です。
先に豊臣家により没落した陰陽の頭、「土御門久脩」は「徳川家康
」により復興を許され、その配下となって家康の天下取りに大いに 陰の功を尽くしたのだが 今一人彼の側近の黒幕が天台の高僧「天海」であった。
ここで徳川家は皇統系の陰陽術と仙道、道教系神占術の両派を完全に掌握し偉業を達成したのだが、更に自家の永遠の栄えをその城地と居城によって得べく、この二人 の占いのエキスパートに秘術の限りを施させた。
門外不出の密法は京都御所と江戸城に施されていた!より引用
天海って凄いよね~
たくさん調べてくれて助かったよ(^^)
ありがとう♪
四神相応の地|『東京(江戸)』ではどこが『四神』の場所なの?
南光坊天海は関東中をくまなく調べ『本丸大地』が『四神相応の地』として適している
そのように判断しました
【東】青龍 東に清き流れ(平川)
【西】白虎 大きな道が続く(東海道)
【南】朱雀 広く開けた湿地帯(江戸湾)
【北】玄武 背後に大きな山(麹町台地)
富士山の説もありますけど、『麹町台地』から富士山が望めるから
『麹町台地』を山にみたてたのと男体山という説もあります
その中心部の繁栄が約束づけられ更にこの城郭は
上野
この中心(本丸台地)に江戸城を築
実際に、江戸城があった現在の皇居の地面の磁気を測定してみると、通常の倍の数値があることがわかっています。
四神相応の地|『東京(江戸)』で施された『鬼門封じ』
江戸城を政治の中心地に決めた天海は、次いで周辺の要所をおさえることにしました。
江戸城は四神に守られていますが、陰陽道での観点では北東と南西を忌まわしき方角としています。
北東を「鬼門」といい、南西を「裏鬼門」といい鬼門から邪気が流れ込み、入ってきた邪気は裏鬼門を通り抜けていくとされてましたので鬼門と裏鬼門を封じて、邪気が入り込まないようにする必要がありました。
しかし、ここに出来る気界は吉凶共に普通の場の100倍位の事象を
徹底した『鬼門封じ』のほか御三家を各方位の要所に収めて相続の万全を期しています。
寛永寺基本情報
寛永寺は、天海僧正によって開山された上野公園内にある寺院です。東の比叡山という意味で東叡山という山号があります。比叡山が京都の北東(鬼門)の方角にあって京都御所を守ってきたように、寛永寺は江戸城の北東にあって江戸を守ってきました。
所在地: 〒110-0002 東京都台東区上野桜木1丁目14-11
開業: 1625年
創設者: 天海
電話: 03-3821-4440
寛永寺公式ホームページ
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四神相応の地|『東京(江戸)』江戸の水路は「の」の字型?
江戸の水路は螺旋状の「の」の字型に掘り進められていしました。
江戸城の内部も渦郭式という「の」の字型になっておりいて城を中心に時計回りで町が拡大していきました。
江戸の人口の増加はこの堀の開削と比例しており、外縁に広がっていくに従って人口も爆発的に増えていきます。つまり、町がどんどん外縁へと広がり、無限に成長していくように設計されていたのです。
平城京や平安京のような『碁盤の目』ではない螺旋状の水路の作り方は呪術的な効果があります。(平安京は)
天海が修行した比叡山の天台密教では螺旋(らせん)構造を重要視していて高野山の真言密教においても同様だそうです。
四国八十八カ所巡りは本来「らせん状」に回るもので、天台宗の千日回峰行も螺旋に巡るものだといいます。
『右回り』は発展
『左回り』は収束ですので江戸には永遠の発展を意味する呪術的手法が用いられています♪
もちろん街が発展する背景には町民が安心して暮らすことができるインフラが必要になってくるのが条件ですので土木工事や『治水』に携わってくださった大勢の人たちのお陰さまなんです♪
四神相応の地|『東京(江戸)』平将門の『北斗七星』
日本三大怨霊のひとりと言われている平将門なのですが、関西では謀反をおこした極悪人
関東では町民や農民の大スターというように意見が分かれているんです。
関東に古くから住む人びとは関東に縁もゆかりもない下級貴族が中央から派遣されてきて、国衛の役人として権力をふるい、私腹を肥やしているのを快く思っていませんせした。
だからこそ、かれらは関東の「独立」を図った将門を支持し、京都政権に敗れたとはいえその志は高く評価され、悲劇の英雄として在地の人びとに数百年もの期間にわたって語り伝えられてきたそうです。
関東における事実上の最高学府の『足利学校』に通っていた天海の耳に入らないはずがありません。
平将門は京都にいたころから妙見菩薩を信仰しており、関東を平定した際の神懸り的な戦ぶりも妙見菩薩の加護があったからであると噂されていたことから『天海』は平将門を祀る神社を北斗七星の配置にして結界とし、その御霊を鎮めたと言われています。
① 鳥越神社②兜神社③将門首塚④神田明神⑤筑土八幡神社(津久戸明神)⑥水稲荷神社⑦鎧神社
上の7つの神社を線で結ぶと北斗七星が現れます。
600年前のこととはいえ自分がこれから治める関東8国が『平将門』が治めていたことに
家康は感慨深く、また自分自身を重ねてみていたことでしょう。
四神相応の地|『東京(江戸)』 まとめ
『東京(江戸)』の発展の黒幕は『南光坊天海』だった
『東京(江戸)』には算命神占術や『風水秘伝』や『鬼門封じ』が行われていた
『東京(江戸)』の発展の陰には『平将門』の鎮魂があった
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徳川家康を祀る日光東照宮の回路にある建築装飾彫刻作品の『眠り猫🐈』で国宝に指定されています。
実は眠り猫の彫刻の裏側には猫を天敵とする雀が彫刻されています。
猫のすぐ後ろに雀なんて…イヤな予感しかしませんよね(^^;
猫たんが食べてしまいそうですもんね~
同じように思った方もいらっしゃるかもしれませんが、これこそが『眠り猫』に秘められた願いなのです。
雀にとって猫は天敵ですが、眠っているのであれば天敵にはならない。
つまりどんな天敵でも居眠りをしているならば共存できる、敵も味方もなく安心して暮らせる世界
そんな平和への願いが込められていると言われています。
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