算命学|運命改善

運命改善 算命学

⑩運命改善

巷間、云うところの
「人の運命は自由にかえられるものである。その人の生き方次第で、良くもなれば、悪くも変わる」
と言うのは、三分の二の宿命を抜きにして、今生での自分が感じる幸不幸を対象としており、(当たり前である)
しかしそれが、永遠に生きる自分と、自分の分身である家族、家系を含めた自分が

『霊等を高め、
宿業を解消し
真底浄まって
天恩地恵を味方とする
「真の幸せ」に至って「安心立命の日々をえながら家系の繁栄を招く』為には、良くて三分の一の作用しか持ち得ないがお判り頂けた事と思います。

 

世にある処の「運命学」、「運命鑑定、改善」、「諸々の開運法」は、皆この三分の一を対象として

宿命は
これを「天運」と言い、宇宙、大自然が人に及ぼす運でこの占いを「天占」とか「神占」等と呼び人の魂や霊的な面に作用し人間の根本、本質を問いただす

運命は
「地運」と言い、地球からの恵みが肉体がその時、その場の吉凶禍福に作用し、これを占う事を「地占」とか、一般に「占い」 と呼び、現身の喜びを求める。 (別に天占を上占、地占を雑占とも言う)

玄明館の神占術はこの両方を用い、宿命に関わる天は主に「算命占星術を用い、運命に関わる地占は「仙相術」を柱として用いますが
先ず応急処置の必要があるかどうかがあれば(例えば大禍に直面している等) その運を停止させ「気」を満たしたり、心行を変えたりで、一旦は除難します。

天地人運

その上で必ず、宿命と現状を対比して、 正確な原因を捉え、その原因を解消する事に併せて、その人がどう生きるのが一番楽に生き乍ら、最も大きな幸せを得られるかに導きます。

この場合、霊を操作したり、信仰的暗示や、信念の魔術的な技法は一切用いません。あく迄も「根本」を対象に、現実の手段で迫るのが原則です。

何故ならば、 それ等 「人間の心の法則」 を使って、「見えない世界」 を無理に変え、後はタナボタ式に奇跡を待ったり、幸運の訪れを期待する処置は、一時成功したかに見えても、決して長続きする事はなく、「一難去って又一難」の世界から抜け出す事が出来ないからです。

神仏を信仰する方には、特に判って頂きたいのは、神や仏は「如何に貴方が熱心に祈ろうとも」 「同情して御利益を」 等ありません。

神仏には、貴方の次元で考える情や愛があるのではなく、大きな宇宙レベルでの大愛や慈悲があるだけで、それは万象を産み、 在らし
め、高めようとする「法則―経綸」によって行われているのであるから、その法則に叶う願い、祈りに限り守護、救済が働くのであると知らねばなりません。

この神の大愛と言う法則の中には、貴方にとって不幸、厄災と見える事柄も含まれている点がポイントで、例えば大きな幸せを与える為に「受け皿=貴方」の、掃除の必要があって与えられた、病気や苦悩を「どうか取り除いて下さい」と願えば 「よしよし」と、その件は解決してくれる代わり、用意されていた大運は、自ら放棄した結果となる等です。

いずれにしろ「幸運とは」 貴方の為にどこかに用意してあって、それを何者かが持って来てくれるものではなく、幸福の法則が 「古今、無限」に働いており、その中へ貴方が向かうか逃げるか、が真理です。

この例は、私が昔、師事して「四柱推命術」、「奇問循きもんとんこう甲術」、「気学」、「人相」、「姓名学」等を学んだ、大家と言われた先生の実占をそばで見たものですが。

× 夫が農家であった親の財も含めて、四千万もの借金を作って終い、毎日恐い人が怒鳴り込んで来たり、大声で町内へふれ廻ったりで、身の置き所がなく、お陰で二人の子供もすっかり変わって終いました。 夫は悪い人ではなく、嫌いではないのですが、幾ら頼んでも遊びは止めようとはしません。子供を連れて実家へ帰ろうかと思うのですが、 でも、お金の手当てが、若し出来るならば再出発を一番望んでいます。

○ 東北の方向へ行きなさい、そこにお金が用意されています。

×アラ、主人の実家です。 今、兄が当主ですが、主人とは犬猿の仲で、とても頼みに行ける筈がありません。まして、 ここ十年位は、全く交際も途絶えているんですもの。

○別に、行きたくなきゃ無理に行かなくても良いのです。 只、そこ以外は今、八方が塞がって居り、お金もその他の幸せも採り様がありません。 良くて離散、悪ければ・・・・

三日後に奥さんはシブシブ義兄の家へ向かいました。ところが何と、手を取らんばかりに迎えられ、「実は君子さん、あんたの家へ頼みに行きたかったのだが、どうしても気が重くて尻が上がらなかったのだよ。 今度、出向で五年間外国へ行かねばならず妻子も連れて行きたいのだが

病気で寝たきりのオフクロだけは病院にと思ったら、「どうしても家は出ない、病院へやる位なら殺せ」と駄々をこね、これは弟に頼むしかないと、家内とも意見がまとまったところなんだ。

色々あったが、ここは一つ、頼まれてはもらえまいか、その代わり父の遺産分で私が「孫が成長する渡すな」と言われている金、自由に使える様にするから。

とこんなタナボタで二ヵ月後には一家揃って実家へ移り、自分の家は人に貸し、子供達もすっかり明るさを取り戻して、新しい学校へ通い始めたそうで。 メデタシメデタシの筈だったのですが。

一年後、この奥さん、又も先生の前に泣きくずれていました。
あれ程、もう賭け事は止めると誓ったのに、近頃は前よりひどいんですよ。おまけに酒も入って
暴れるしで、生き地獄です。 先生何とか助けて下さい。

○ 最早や人智の限界を越えた霊障の問題です。 一生懸命御先祖の供養をして下さい。その真心の次第で必ず何らかの結果が出る筈ですから。

と、先生はもう見切りを付け、逃げに入り、責任を「貴方の真心」にすり替えて終いました。

五年の予定が、三年で義兄一家が戻った時、 この奥さん、子供を連れて実家へ戻り、勤めに出て自立しました。 そして尚、先生の所へ来ています。

子供がどんどん駄目になって………
主人が約束のお金を入れてくれない。

夫が子供を連れ出そうとして…

先生は、名前を変えさせたり、方位をとらせたり、お守りを渡したり、等を細々とやっていますが。

結果としてこの先生は、御一家の運を台無しにし、四人の人の幸せを壊して終ったのです。

この先生は、奥さんの運命だけを対象に鑑定し、 当てる事を誇り、改禍招福の看板を大事に守った迄で、それが失敗であった事は何も表面に現れず、故に占者としても、大家としてもどこが悪い、等と誰の非難も受けません。

しかし私は
ああこの占いでは駄目だ。 ここには技法があっても肝心の「相手の人をほんとうに幸せに導いてあげねば」 との真心がない。

否、心があっても、表層の人しか見えない占いは、吾が求めるものに非ず。
と断じて、逃げ出したのです。

この例の場合、先ず一家全員の本質の運である宿命を調べ、各人の関わりを解明し

主人は何故放蕩散財に走ったのか
何時迄続くのか
夫婦は添い遂げる定めなのか
各親子の縁の濃さ
夫、子供の生きる特性は
そしてこの家庭は本来成立す可きか
子孫に伝わっているか。

こんな事を前提に置いた上で、 今欲しいお金を取らせた方が良いか悪いかを判定すべきだったのです。
そして、その人が「目の前に現れたその日から、亡くなられる日迄」を、基本に置いた上で「今」を鑑定しなければならないのですが、そんな占いや行法、学問がその後何年も探しあぐねた末、やっと見つけた、と言うより引き寄せられたのが「算命占星術と仙相術」だった次第です。

では運命改善の仕方をまとめましょう。

1 命に関わるか、それに準ずる大事にある人は、応急処置をします。

2 問題点の根本の原因を捉えます。

3 解決策は、家族の星を含む環境全体の中から求め、対症法に捉われぬ。

4 今迄の、現実の生き方を問い、宿命との誤差を出し修復する。

5色々起きた事柄を分析し「天の声」を聞き出す。

6「今日以降」の最善の暮らし方を明確にする。

7一生に起こる何万回かの選択を誤らない 「根本の尺度」をもつ。

8 自分の一番大切な「自分の人生」なのだから「真剣に賢こく」考える。

9 自分の星を、いつも輝かせておく。(後で運勢の項に出ます)
こゝからの三法は、運命を越えた絶対法となります。

絶対的開運とは、 「運の支配、影響を越えて幸運の場に安住する」事ですが、先ず相対、現象の
世界に生きる「人間」を超越し、自然に同化して生きれば理想ですが、 現代の地球上に実在する私共には、死ぬ以外は許されません。

そこで、出来る限り自然=あるがまゝに近い現実生活を目指すのです。

この場合の自然とは人気のない山中でくらす事等ではありません。

自分に与えられている環境や時代、制約等に無理に逆らわぬ。
自分が乏しい持ちもの (好きじゃないもの) で生きる事は避ける。

自分の器量、才能以上のものを望まない。すべての競走、比較は捨てる。

人生の先を急がず、今を丁寧に生きる。
そして、人間に与えられた最大の自然であるところの「人間裸で生まれて裸で死ぬる身」を悟る事です。

「下手な考え休むに似たり」 と言いますが、 「俺の人生だ、俺様の考えで生きなきゃ、たった一度
の人生悔いが残る」と俺を突っ張る自意識過剰の人 (大部分)は自分を知らないだけなのです。

前に地球にまたがり宙を飛ぶ自分を焙(あぶ)り出した様に、又裸の自分を別の目で見るのです。

「出生以前」預かり知らぬ事。 「躰は」 オッカサンのお腹で作られたか、オトッツアンとの合作
であるかも問うところではなく免に角 「裸でオギャー」です。

寝て喰いタレてと皆オートマチック、 智恵だ、学問だなどといっても、すべては周りの人と、人類史上の先人からの貸りもの。

高い精神、根性と言う類、その他、目で見て盗み、文字や言葉から得たものも皆同じで、どこを
探しても、本当に自分のものと言い切れるものが見当りません。

だから躰を「空だ、 カラダ」と読むのでしょう。

だが殆どの人はその借り物を俺のものだと言ってしがみついて生きます。

そして、死ぬ時は、 その備品を全部返して、又、裸で帰るのが本来の姿で、口惜しい様だが致し方ありません。

その「空っぽさん」が、俺の考えを威丈高に我鳴って見たとて、所詮は三分の一で知れたもの、たまたま一時うまく行っても、最後まで満点の答案を出し続ける事は皆無に等しいのは歴史上に現れた幾多の英雄の末路が物語っています。

だから 「我と執着を去る事」 イコール幸運の度合いで「空っぽ故、空に生きる」が最高で空の器ゆえにこそ幸せの入る場所が出来るのです。

次は宿命の項にもあった、世の為人の為に尽くし切って生きる事ですが遅い様で早く、そして確実に、又あらゆる原因に共通して働く昇運法ですが、上手に出来る人は滅多にいません。

何故かと言うと、如何に形の上の善行奉仕に励んでも、それは三分の一。 その行為の奥の「魂の在り様が三分の二」 でこれも法則通りの訳で、表層の心や頭で考えた善行では「作意=偽善の行為」となるからです。

本当に、腸はらわたの底から沸き上がってくる 「喜んで頂きたい、幸せになってもらいたい」 に駆り立てられた行為でなければ、 宇宙の律法に叶わぬのですから難しい訳です。

そこで要領をお教えしましょう。
子を持つ親業をやってる方は、そのままの心情です。

一切の見返りを求めず、何の理由も必要も論理もない、 只ひたすらの愛故の情であり(そうじゃない親は善行不能の人)

神の愛、仏の慈悲と同質のその愛を形にして、親に兄弟にと順に広げて行くのです。

一番喜んでくれ易い身内の人にさえ通じないものは、他人の世界へ持ち出しても通用する筈がないと知り、そして、社会と言う人間界の最小単位である「夫婦」と言う場で、先ず練習するのです。
「ありがとうありがとう」と終日唱え、相手が喜ぶ言葉を絶やさぬ事です。

お金も労力も不要故誰にもできます。 最初は「心にもない」ことでも良いのです。
驚く事が必ず起きます。 配偶者との愛の世界が出来たら子供にと広げると妻子も共に自分と同じく外に向かって愛を行う様になる筈ですから、 一家の幸せに向かう訳です。

最後は家族全員を健康にしておく事で、これも運の良否以前の問題とも又、運とは躰と心を合わせた不健とも言い得ますが、 ここでは、仮に切り離して捉えました。

又、一般に健康と言うと肉体的、を言います故それも順じます。
一家全員が「無事息災」で一生を過ごせたら何よりの幸せ、と言う 「息災」を言いますが、元来息災の語意は、仏教用語で「仏の力による除難」を第一意としており、ここでも健康即ち幸不幸的に用
いられています。
では何故ここで、事更に躰の健康を持ち出したかと言うと、健康と寿命をもくっつけて考えた上、我々の肉体は「命の容れ物で、運の器である。」と捉えるからです

故に肉体は三分の二の「宿命的「健康」つまり「(サダメの健康である生死、長短、強弱、体質等)を持つと同時に三分の一の「運命的健康」即ち、運動や栄養とか保健、治療等の自分次第で左右する面とを併せ持っていると解し、この運命改善法では三分の一の健康に対する人間の取り組み方を取り上げました。

動物としての人間の寿命は、本来は百二十才と言われ、 それを娑婆の労苦でケズリ減らしている
(三分の二のストレスと三分の一の肉体的不自然で) のが一般に言う寿命とされています。

しかし宿命が本来与えている基本的寿命は百二十才の三分の二即ち八十四才ですから、そこを越えれば宿命は消化され必ず幸せは約束されている故、人は本能的に長寿を願うのです。

又それが改運法を唱えるものの内、マジメなもの、確かな物は健康法を併せ持っている本当の理由でもあります。

吾が国の相道の神様的な存在である「水野南北」と言う人は、仙道の観相を修めた人で、その「開運の秘法」を「慎食法」「息修法」「調体法」にあると説きました。

玄明館でも「占い」と同様に健康を大切に扱い 「気功、導引、拳法、呼吸法、自然食法、仙水法」等を大いに用としますが、誰でも健康法の一つや二つは行っている事と思います。

健康の為に何が一番良いのかというのは大命題ですが、何もかも必要とも言え自分に合ってないものは有害でさえもある等の説があり、一人一人に皆異なるのですが、ここでは、考え方の根本を提供致します。

先ず「オギャアと産まれた時を考えて下さい。 「動く」 「呼吸をする」「意識を持つ」「水一
(乳)を取る。これが出生と同時に先ず必要なもので、何ヶ月かすると「食べる」、立つ歩く(運
動)思う(習得) の順に成長します。 この順番が重要さの順序です。
では死ぬ前はとなると「考える事が面倒になる」 「立てなくなる」 「喰えなくなる」 「水が通らな
い」「意識がなくなる」 「呼吸が止まる」 「動かなくなる」と丁度逆になります。
こうして、自分にとって、生きるに重要な面から、間違っていなかったか、おろそかにしていな
かったか、を見直し対処して、三分の一の肉体を(運命のもと) 養生するのです。

この健康を(運命) 使って、寿命(宿命)を上げて行く論理は、本編に一貫する哲理であり又、本編以外の玄明館の「健康長寿法」が「意・息・体」行であり「食・水」法である訳です。

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