今から2400年前中国戦国時代の初期に『鬼谷子(きこくし)』という偉大な賢人が現れました。
『算命占星術(さんめいせんせいじゅつ)』は2000年つづく中国王室の帝王学『算命学(さんめいがく)』の実用部です
鬼谷子(きこくし)はそれまでの思想、学説、占法のすべてを集大成し自然とともに生きる「理想の人間学」を完成してそれを『算命学』と名付けました
『算命学』は3つの全く異なる学理からなりますがその各々が超一流であるに加え、三者が相乗して働き、調和して活用される時は国家を動かし、社会を変え個々の人間を蘇らせた上 今日までの中国と日本の歴史の影の立役者として君臨してまいりました。
その3つの学理とは
①算命思想(さんめいしそう)
老子の自然思想を骨子に、陰陽論、五行説、天文歴法、氣の思想、神占思想等の精髄を説くものです。
②揣摩の術(しまのじゅつ)
『縦横の術』とも呼ばれ人の心を自在に操り 軍略、治世、宰相、帝王の学とされてます
③算命占星術(さんめいせんせいじゅつ)
占いの帝王の名を「易経」と「陰陽」に分け持ち,後世の諸占法の出典となった超占法です。
以上の3つで構成されていて即ち、実用性を備えた哲学で、占術を併せ持つ兵法、治世の帝王学として働き哲学と心理学を持つ運命学として驚異的な効果を顕わしました. これを教えた『鬼谷子』という人は中国の古典 司馬遷の著『史記』にも名前が登場してます。
鬼谷というのは彼が私塾を置いた土地の名前でその場所については諸説ありますが洛陽の東南で現在の少林寺がある嵩山(仙道五聖山のひとつで中獄とも呼ばれる山)の南麓との説が有力なようです
鬼谷子の『子』は師とか先生などの意味で(老子や孔子とかもそうです)本名は不詳 それから晩年以後の記録は歴史からは消えてます. しかし、仙道の記録の中には後年、雲霧山に幽隠し地仙(人里に出入りする仙人)となった鬼谷子の名前が見られます。
しかし、この偉大な『算命学』の名前は今日までほとんど人々の口に上がったことはありませんでした。
これは人智の限界を遥かに越えた難解な哲理と技法で成り立っていたことと、今一つの理由は算命学が歴代中国王室の門外不出、専属帝王学の場にあったからです。
算命学が最初に世に出たのは秦の『恵帝』の時にさかのぼります。 鬼谷子の高弟の張儀が今で言う総理大臣に迎えられたことから始まります。
さまざまな術を駆使して近隣諸国を相手に秦の国威を高揚し、それに対して近隣の六国は張儀の兄弟子にあたる『蘇秦』を共通の総理大臣に迎え入れ 張儀と蘇秦2人の兄弟弟子は起きつ転びつの死闘を演じましたが優劣の決は下らなかったようです。
これが史記の主要題材として記された『戦国策』でこの壮大にして超高度な兵法の原典であった本、鬼谷子の書いた『揣摩の書』は天地人に精通していて人を意のままに操る神秘の書として 近年に至るまで兵法経国のバイブルとして今日まで無数の『縦横家』と呼ばれる名将、参謀を生み、偉大な王を輩出して世を動かし治め歴史を演出し続けてきました
蘇秦の死後天下を統一した秦の『始皇帝』はこの恐るべき『算命学』が二度と他国の手に渡ることがないようにと自分に仕える算命学の後継者1人を残して他のすべての関係者を殺してしまい ある限りの資料文献をこどごとく焼き尽くして、これが外部に洩れる事を禁じました。 それが自国のためだけに伝え、使われるようにと『文書を禁じ一子相伝の口訣』によってのみ伝承を許したようです以来、算命学の全容は完全にその姿を歴史の陰に隠してしまいました。
秦の国と鬼谷子との出逢いは先の恵帝が王子として誕生した時に王室に招かれ新王子を占ったことから始まり
この時の鬼谷子は2人の高弟を助手に3年の歳月を掛けて占い王子と国の栄枯盛衰、起承転結を余すことなく明示したといいます。
『王統の血は三代の後止み血新しき者、偉大なる王と顕れ国を揚ぐもし、儒と唱え徳を行えば300年の栄えを得るもその16年後に国を没す』
この占いを寸分違わず踏破して秦帝国が滅亡すると近隣の各々の歴代の国王は必ずや算命学だけは生かして残し、自国のためだけに使うようになり
以来、中国が共産革命で体制の姿を変えるまで連綿と続きました
しかし、秘める程顕わるは世の常であって、それ程までに厳密に封じられた筈の算命学は形をバラバラに変えながらも部分的に世に流れ諸葛孔明を始めとする、名のある軍師、武将に使われたり道教や仏教の流れに乗ってわが国へも渡来し楠流や甲州流軍学のもととなりました。
日本での『揣摩の術』は戦国時代に「戦略秘法」として密修され、活用した人に
斉藤道三
明智光秀
竹中半兵衛
黒田官兵衛
柳生石舟斎
南光坊天海 等があります。
一方算命学の算命占星術も外部からは「幻の占い」と呼ばれ垂涎の眼差しで見られていたようです。
算命占星術の十六元法の一部が姿を変え九星術、十二推命、四柱推命、奇門遁甲、気学等の高等占法の中で息吹を取り戻して世の中の脚光を浴び日本に流れたものは陰陽師、修験道、古神道の世界に潜みまた
また、面白いことに大名や軍師が用いた『揣摩の術』と、それら戦国大名たちの陰の相談役、顧問の役を果たした占師や僧達の占星術がここで久しい対面をし、やや本来の算命学的な形を成したのは天の配剤というべきかあるいは算命学そのものが持つ神秘の魔力のせいなのか…
本流を継承した王室の算命学は共産革命によってその立地を失い当時、2人いた正統後継者は辛くも難を逃れて生き延び1人は台湾に渡り1人が戦後の我が国に安住の地を求めました。
日本での算命学は抑圧の2000年に対する反動が爆発したかのごとく一気に全容を公開しましたが治安、軍略、兵法の部分は表面には姿を見せず『算命占星術』として優れた俊才を輩出しました。 しかし、算命学自体が持つ宿命とも言える『世の表舞台に立たず』の質が働き多くは産業、経済界の参謀、顧問等の場で発象し今日の我が国経済の奇跡の大発展に不思議な力を発揮しました。
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