現代宗教に対する疑問
1971-10-23 関西本部講演会
過日の講演では私は小さい時からの信仰とその疑問の解明を通して、神の存在、仏の存在、人間
自身が何の目的で生まれて来たのか、また貧富、地位、名誉その他の面からして、なぜ人は苦しむのか。
インド時代のゴーダマ・シッタルダー釈迦牟尼仏は当時何を説き人々を救っていったか、こ
のような点についてご説明してきました。
さて本日は、現代宗教に対する疑問ということについて説明してみたいと思います。
私たちには長い歴史の中に、肉体的先祖代々によって受けつがれてきた習慣的な信仰というもの
があります。
この習慣の中においても私たちは多くの疑問をもっているはずであります。釈迦牟尼仏の教えから作られたはずの経文の意味を解し、それを生活に活かすこともなく、ただ経文をあげているだけという事実はどうしたわけなのでしょう。
まずインドの当時においてゴーダマ・シッタルダーがその時代と宗教と人生に対してなぜ疑問を
もったかということを皆さま自身考えてみていただきたいと思います。
彼は今から二千五百有余年前において、カピラ・ヴァーストというコーサラ国の小さな一属国―
ミガダヤのふもとロッシニー河の流れているところに、シャキャ族の小さな国の王子として生ま
れました。彼は逆子だったので母親は産後の肥立ちが悪く、彼を生むと一週間目にこの世を去ってしまいました。
インドの時代はほとんど子供を産む場合は自分の実家へ帰ります。中インドのロッシニー河をは
さんで対岸にデヴァダバ・ヴァーストがあり、当時はここに住む人たちをコーリヤプトラーと言っておりました。
コーリヤ族はシャキャ族の一支族であり、実の妹であったパジャパティにつきそわれてデヴァダ
バ・ヴァーストに帰る途中マヤ(シッタルダの母親)はルビニーというところで陣痛をおこし、シッタルダーを産みおとしてしまいます。
マヤは妹たちの手あつい看護の甲斐もなくこの世を去り、このため妹であるパジャパティがシュット・ダーナーの正夫人となり、カピラ・ヴァーストで生活をするようになります。
当時の環境は非常にきびしく、食事にも昔の日本の大名のように毒味をした後でなければ食べら
れません。カピラには敵のスパイが常に入っているために毒殺されるというケースが非常に多かったからです。
また外敵の侵略は日常茶飯事であり、外見は平和でもその中身は常に争いの渦の中に
おかれていたわけです。
このように不安定な環境と、亡くなった母親に対する一つの悲しみがあり、また城から外へ出れ
ばきびしいカースト制度によるところの不平等、日本でいえば士農工商のような制度、否それ以上のものであり、当時はバラモンの思想が千数百年もつづいていまして神仏の名の下に人々を支配してきた制度が日常の生活の中に滲みこんでいます。
当時のインドの支配階級である武士階級クシャトリヤは、バラモンという種族を擁護すると同時
に商工業者ヴェシャーの生活権を守るということで豪族がいつの間にか武将になっています。
それだけに日本の十二世紀、十三世紀、十四世紀の混乱期と全く同じような社会現象が存在していたのであります。
このような時代ですからシュドラーというもっとも低辺の奴隷階級に生まれてしまいますと、学ぶことも財産をもつこともできません。牛馬同然になってしまいます。
鬼子母神という名を知っているでしょう。この女性は神でも仏でもありません。もっとも低辺の
シュドラー階級の女性でありました。子どもたちをさらってゆき、自分の子供のように育てていました。
ハリティーと当時の名前はいいますが、彼女がジェーター・ヴェナー(祇園精舎)にいる時に一
人しかない自分の子供が誘拐され、初めて子供をさらわれた親の苦しみを知りました。前非を悔いた彼女は最後は比丘尼としてゴーダマ・シッタルダーの弟子になりますが、これなどは当時のきびしい階級制度への反逆という形で現われた事件なのです。
太陽の熱・光のエネルギーは貧乏人、金持ち、地位、名誉、全く関係なく平等に与えている。そ
れなのに人間の作った環境だけが、長い歴史の中に築き上げられ、種族保存の旧来の要求が生活の中に溶け込んでおります。シッタルダーの生活は優雅ではあるが、一歩外へ出るときびしい環境である。
なぜだろう。同じ人間に生まれながらなぜこうも違いがつくられているのだろう。
当時のインドの人たちには百才、百二十才という高齢の人たちが大勢います。しかしそのような
老人は骨と皮だけ。
シッタルダーはそういう姿を見るにつけてもなぜ人間は年をとるのだ。自分の
母親が一週間目に死んでしまったという話、なぜ死んだのだ。ここで初めて生老病死、苦の問題の糸口をつかんでゆくのでした。
人間はなぜ生まれたのだ。
なぜ年をとるのか。
なぜ病気をするのか。
なぜ死んでいくのか。
この四つの問題が解決しないためにシッタルダーは二十九才の時に家を飛び出してしまいます。
このようにして悟りへの道へ入っていったわけですが、当時は今のインドのヒンズー教のように、バラモン教というものがありました。
インドのバラモン階級の一つの教えであります。後世、日本に伝来した仏教にはバラモン教やヨ
ガ教などいろいろなものがいつの間にかミックスされてしまいました。インドの当時は仏教などといってません。
ブッタ・ストラーといっています。悟りへの道、神理への道という意味です。これが中国へ渡ってくるに従って仏教という一つの固定した枠の中に入ってきたのです。
しかし六世紀から七世紀にかけて、南中国に天台智顗(てんだいちぎ)という方が出て学問仏教ではない、行ないの仏教ということを主張します。
法華宗というものの根本を作り始めてゆきました。当時の仏教はまだ純粋なものです。自分自身の心というものを磨くことが主体でした。
他力ではありません。
皆さまは自分の体の痛さを人に分け与えることができない、人の痛みを自分自身がとってあげる
こともできないはずです。なぜならば甘いものを全く食べたことのない人たちに、これは甘いんだよといったところで、果たしてその意味を理解することができるでしょうか。
匂いもまた同じです。ある人はこの匂いはよい匂いだと思う。しかし反対に、いやーこんな匂いは嫌いだという人もあります。また匂い自体も慢性化してしまうと、はっきりこれが解らなくなります。
このように仏教というものも二千五百余年の間に、いつの間にか拝めば幸福になる、信仰という
ものは一心にお経をあげることだ、このように変わってきました。そのために、この中の皆さまの多くのこういう信仰に対しての疑問はいっぱいあったはずです。
その疑問が解けないために盲信をする、あるいはまた特定の宗教家たちは罰が当たる、罰が当たった、このようにいいます。
しかし、本当に神は罰を与えるのでしょうか、仏が本当に罰を与えるでしょうか。さらにまた本
当に先祖は私たちに不幸な罰を与えるでしょうか。それならば私は皆さまに質問をしたい。果たしてかわいい子供が不幸になることを親が喜ぶでしょうか。
あるいはまたお祖父さんやお祖母さんが、孫たちが不幸になることを喜ぶでしょうか。それならばなぜ先祖が私たちを不幸にするでしょうか。
それぐらいのことは神の子である人間であるなれば誰も明確に判るはずです。神は絶対に、私たち人類に対して罰など与えないのです。
罰は人間自身の心と行ないが作り出すということを皆さまは知らなくてはなりません。苦しみも
悲しみも他人が作ったのではありません。皆さま自身の心のあり方と行ないが作り出したということを知らなくてはならないのです。私たちは地獄も極楽も自由自在に行ってきます。
皆さまの肉体的先祖が現在どこにいるかについても私たちはすぐ判ります。
さらにまた、その人たちの生前において何をなし、その当時どのような話をしたかということも
私たちは即座に判ります。
しかし一般の人々はそのことが判らないだけに、人間は祈ることによって救われると思っています。仏教においてもまた同じ。お坊さんは朝勤行といって朝早く起きて拝んで手を合わす。経文だけ幾度あげたところで心の安らぎは、これだけでは得られません。
まず経文の意味をよく己自身が知って今の一秒一秒の心のあり方を正しく、神理に適った生活を重ねてゆくことです。
皆さまは一念三千という言葉を知っているでしょう。一念三千とはどのような意味か。皆さま自
身の心というものは、無限大に広く大きいもの、そして皆さまは想像することも、思うことも自由自在です。
恨むこともあるいは喜びも心の中では自由に思うことができるはずです。この思うことが私たちの心のあり方を決定していくのです。皆さまは現在このような肉体をもっていますが、これはあの世においてお父さん、お母さんと皆さま自身がお互いに約束したものなのです。
あの次元の異った空(くう)の世界、すなわちこの地球を含めて大宇宙に広がる光の世界、実在界(あの世)から見ればこの現象界(この世)は立体画像にすぎないということです。
こういたしますと私たちはあの世という実在の世界からこの地上界へ出るために肉体という舟に
乗りました。この人生航路を渡って行くための肉体という舟の提供者が私たちの両親であるということです。そこでまずこの舟をいただいた船頭さんは誰であるかということを知っていただきたい。
この船頭さんこそ皆さまの心であり魂なのです。それを両親が魂までくれたと思っている人たちが多いのです。もし両親が肉体以外に魂までくれたとしたならば、なぜ子供は親のいうことを聞かないのでしょうか。
私たちは長い転生輪廻の中にそれぞれが縁というものによって、あの世では皆さまは友だちであり兄弟であったり、お互いに約束をして出てくるのです。
しかし私たちはこの地球上という場に出て肉体という舟にのってしまうと、わずか10パーセン
トしか意識は表面に出ていません。これについて一つの氷を主体に考えてみましょう。
水面に浮かんだ氷の部分は約10パーセント、90パーセントは水面下にありますね。この現象
は氷ばかりではなく、鉄であっても銀であっても同じです。皆さまも今この地球上という場にその
意識の10パーセントしか出ていないのです。
私たちの住んでいるこの世は、あたかも実在界から投映された現象界でありますが、それはちょ
うど氷の表面に出ている10パーセントと、沈んでいる90パーセントと全く同じことなのです。
このために、あの世とこの世は紙一重の違いだけといえます。皆さまはすぐにでもあの世に行くことができます。
こうした意味で、この世とあの世は全く一体となっているのです。そうしてあの世でも地獄界と
いうのはこの地上に近い状態の環境といえます。地獄界という環境、その環境から天上界へとたくさん段階があります。
それは皆さまの心が、先ほどの調和の生活といいましたが、神理の中道の道を毎日の生活の心と行ないに活かした時に、皆さまの心は神の光に包まれ安らぎの生活が生まれてきます。
その安らぎは心の調和度、すなわち光の量によって違い、あの世の段階を決めているということです。私たちは皆さまの心の状態を語ってみることができます。
そうしてこの形の歪みの起こっている人が、その人の欠点であり、心の調和度に関係してくるわけです。
皆さまは心は丸く、大きくという話を聞いたでしょう。そのとおり、心というものはあたかも、
風船玉のように広く大きく丸い心、この心の中を断ち切ってみますと、まず神より与えられている本能というものがあります。
さらに知性という領域があります。理性という領域があります。感情という領域があります。そして一番中心に想念という領域があります。心の中で私たちが思うこと
考えること、つまり想念というものがすべて中心になっているということです。
私たちは肉体舟の眼・耳・鼻・舌・身を通してこの眼で見たものが視覚神経・鼻でかいだものが
臭覚神経、このような神経を通して大脳の中の神経繊維に電気的振動が起こります。この電気的振動がそくざに想念に伝達されます。
想念に伝達されたものが自分の本能や感情、あるいはまた知性や理性の変化によって心全体の領域が変わってくるのです。例えば私たちがものを耳で聞きます。
自分の都合の悪いことを言われた場合に、そくざにスーッと想念に入って来ます。
想念はそくざに感情に出て参ります。この感情に出た時に感情の領域の部分がプーとふくらんでゆきます。すると理性は引込んでしまいます。
こういう状態は想念に曇りを作ってしまい神の光をさえぎるのです。神の光は万生万物にみな平
等に与えられているのです。取らないのは自分自身の想念と行為なのです。
こう考えてきますと皆さまは、神は罰を与えないということが判ると思います。私たちは感情だ
けで物を判断して果たして正しく解答を得ることができるでしょうか―――できません。そもそも私たちのこの地球上に出てきた目的というものは調和にあります。
水面に石を投げたところでその石の波は大きく広がっていくけれども、やがて調和された滑らかな平面にもどります。大東亜戦争によって四年間の不調和な大きな犠牲を払って斗争をくり返したけれども、その後30年間はあのいまわしい戦争がありません。戦争がないだけ、ある意味では調和されているでしょう。
私たちの本能もまた同じ。きれいな女性を見ると男性はつい心を動かされて、この動かされてい
るうち、美しいなあと思っているうちはよいけれども、その先まで考えてしまう。そうするとどのようになるか。理性というものは引込んで参ります。いわゆるハート型になります。感情が出てきて理性は引込み知性はあまり関係ない。
恐らく皆さまは、若い頃、若い人たちもそうですが、恋愛をする、一目ぼれも同じですが、そう
いたしますとこれをよく見て下さい。(図示される)ハートになります。本能がふくらんで感情が出て理性と知性が引込んでしまう。こういう時に、ものの判断が正しくできるでしょうか。自分の好きな相手を見てアバタもエクボに見えてしまう。まず見えるのが当然です。
私たちはこういう心のあり方を五官を通して見たものに影響されて、こうもしよう、ああもしようということが行為になってくることを知るべきです。
皆さま自身の心が、いつも丸い大きい心であるということはそれがそのまま悟りを意味し、イン
ドの時代はこのような問題に対して苦集滅道(くじゅうめつどう)ということを説きました。
私はこの地上界に出て、40年にもなりますけれども、仏教とかキリスト教とかは全く学んでいません。専門は電気とか物理工学です。
現在これを主体として生活していますからプロとして詳しいです。しかし仏教のことなどは全く私は学んでいません。それなのに読まなくてもなぜ解るかということです。
それはテープ・レコーダーやビデオ・コーダーは誰が発明したのでしょうか、人間なのです。人間の中や自然の中に、こうしたものがあるから発明として出てくるのです。発明はすべて疑問の中から生まれてくるものです。
ですから、まず皆さまも人生に対して解らない疑問をそのままにしておかないで、皆さま自身で
解明することです。解らない疑問は人に聞いて解答を得ていった時には、これまた必然的に神理に到達するのです。
皆さまもよくご存じの木村名人という方がいます。この方は将棋というものを通じてなかなかよ
いことを云っております。また作家の山岡荘八先生などもやはりその神理を生かしています。この方たちのように名人クラスになると究極の場は神理であります。
芸術家が芸術を通じ、文学者は文学を通じ、事業家は事業を通じて真剣に正しい心の状態で毎日の生活をしている人たちこそ、本当に信心深い人ということになります。このように地球上は次元の異なった世界から投映されている
現象界であり立体画像の世界であるということが解ったならば、この大自然こそ大神殿だということがお判りになるでしょう。
地球そのものは大宇宙大神体の中の、一つの小さな細胞にしかすぎないということを皆さまは知
らなくてはなりません。
その細胞を私たち人間同志が神の子として万物の霊長としてお互いに、心と心の調和を自分自身が計りながら平和な社会を作るということです。ところが人間は肉体をもってしまうと、肉体先祖とか、肉体が絶対だと考え、すべてに執着をもってしまって神の子、仏の子としての本性を忘れてしまいます。ここに問題があるのです。
皆さまは本当に心の窓を開いて一切の執着からはなれて人々のためにつくす。自分も神の子、仏
の子としてその道を実践しようと心と行ないが調和された時に、人間が誰も心の窓が開かれるのです。
なぜならば想念の中の曇りがなくなるからです。からりと晴れた青空には、太陽の光が万生万
物にすべて平等に当たるように、神もまた私たちに慈悲と愛の光を平等に与えています。
それは自分自身の心にひっかかりがなく、執着がない。恨み、妬み、謗り、怒りがない。いくら
口先でうまいことを言ったところで、あるいは顔と姿(かたち)と態度だけで外面だけをあたかも調和したごとくしたところで、そんなものは何の役にも立ちません。
上辺(うわべ)はどうであれ、心の中から発するところの慈悲と愛がなければ私たちの魂を高い境地に進化させることはできないのです。
さて私たちは先ずここで、肉体というものの先祖、肉体先祖というもの、さらにまた魂の先祖というもの、この二つのものが存在しているということに気がつかなければいけません。これはインドの時代、ゴーダマ・シッタルダ―が四十二才の時にたまたまコーサラ国の使いがジェター・ヴェナー(祇園精舎)に参ります。
マハー・コーサラ王の息子であるカツラピンという王子です。これはゴーダマ・シッタルダーと
は年はそんなにちがいません。
こういう関係ですからカツラピンは『ゴーダマ、あなたは自分の家からたびたび使いの者が来ているのだし、家を出てからすでに十二年、父親も年をとっていること
だからあなたは帰って親孝行をしてやって下さい』ということで、悟った後初めてカピラに帰った時に、お父さんお母さん、あるいは第一夫人のヤショダラとかあるいはまたその他のゴーパとか、二号、三号というとおかしいけれど第三夫人、第四夫人までいます。
一同が迎えに参ります。その時にシュット・ダーナー王が『お前どうだ、これだけの修行をして
きたけれどもお前の姿を見ると乞食同然だ。お前も王子ではないか。そんな汚いしたくをしなくとも、わしがさっそく良い着替えをあげよう』といいますが、ゴーダマ・シッタルダーは断ります。
なぜならば人間は心が大事だからです。いくら立派な着物を着ていたところで心が屑ならば何にもなりません。そういうことから
『お父さん、それはちがう。私はこのように泥だらけであっても、
心に安らぎと調和をもっています。生まれによってその人間の価値が決まるものではありません。だから私は一生懸命に先祖を供養します』
といいました。
ところが父親のシュット・ダーナー王は
『その通りだ。我が家はこのカピラにくるまでに15代
も続いている。この十五代の先祖は偉大なる人たちだ。シャキャというのはよくできた偉大なという意味だよ』
このようにゴーダマに説明します。これに対してシッタルダーは
『ところがお父さん、それはちがいます。私の供養するのは私の魂の先祖に対して供養するのです。お父さんからこのように肉体を頂いたが、このことに対しては私は心から感謝し親孝行をいたします。ですが魂の先祖こそ永久に変わらないところの自分自身だということを知っているのです』
と答えたのであります。
シュット・ダーナーは、『そんな先祖があるのかなー』ということでした。
現在の人々も同じです。魂はお父さん、お母さんがくれたんだ。くれたはずなのに親不孝したり、ゲバ棒をもって火炎瓶を投げてみたり、どこに肉体先祖と魂の先祖というものがあるのだと思うでしょう。
しかし親子の縁は、かつて友だち同志であったり、あるいはかつて両親になった人たちを
たのむのであります。このようにして私たちがあらゆる転生輪廻の中で生命は不変であるという事実は、あらゆる国を転生輪廻して参りまして、このように永遠の旅をつづけているのであります。
あの世に帰りますと10パーセント表面意識が逆転しまして90パーセント潜在意識が表面に出
て参ります。それですから心でお互いに話し合うことができます。私は何回もあの世という実在界へ行きまして、皆さんとも話をしております。この時に私は日本人ですから日本語で喋りますと向こうの光の天使たちは胸のところにバッチをつけております。といって日本人ばかりはいません。
オリンピックと同じです。皆さんは全部兄弟だということです。そして日本語で喋った言葉は即座に彼らの国の言葉で伝わります。あるいは黙っていてもかまわないのです。通じるのです。心で思えばよいのです。相手に通じます。
このようにあの世の世界、天上界は人類の神の子としての自覚をもった調和された世界です。そ
のためにあの世の肉体は光子体といって光でできております。皆さま自身の肉体は約32種類か
ら成るところの原子細胞によって、また約60兆からなる細胞集団によって形成されています。さ
らにまた皆さまの頭脳は約200億からなる細胞集団によって脳葉というものが構成されています。
その中の神経繊維は電気的振動を起こします。
これを脳波といっています。
ところが皆さま自身が、肉体と魂とは別だということに、もし皆さまが反発するならば皆さまが
眠っている時、脳細胞はどうしているのでしょう。耳の穴も鼻の穴もあいてはおりますが、眠った時に脳というこの器官が全て記憶し思い出す能力をもっていますか―――
聞くことも匂いを嗅ぐこともできないはずです。
なぜできないかというと肉体から魂が離れており、脳の機能が失われているからなのです。この事実からみても魂の先祖と肉体の先祖は別であり、肉体は人生の乗り舟だということを自覚せざるを得ないはずです。
肉体というものは万生万物すべて、縁というものによって結ばれて出て来ます。そうしますと私
たちの魂というものの存在が、もっと明確になってくるはずです。皆さまが感情的になる時、悲しみや喜びの時には胸にこみあげてくるものがあります。このこみあげてくる力は一体何でしょうか。
こみあげて来て初めて涙になるはずです。これは想念の中の感情の領域がふくらんでくるからです。それで胸にこみあげてきます。それが眠っている時には、肉体舟の船頭さんである魂は皆さまの体から離れている。
そのために頭は記憶ができない、匂いをかぐこともできない。寝言は肉体に意識が伝わるためにおこる現象だが、口は意識的にきけない。
このように考えてみますと私たちは魂と肉体というものが明確に分離されているということが解るはずです。
仏像画を見ますと後光というものが出ています。神の光は万生万物に平等に与えられております
が、想念に曇りがなくなりますと、心の調和された度合いに応じて神の光を受けていることになります。
それが後光となって出て参ります。この後光が皆さまがあの世へ帰る時の肉体なのです。皆
さまがあの世へ帰る時には、心がきれいならば後光によって包まれて、自分の肉体が例え病気であっても、その時、病気から訣別します。
ところが心を悟らずに、神仏を信ずることなく、恨み・妬み・謗り・自己保存・自我我欲の生活
を送って、あちらが痛い、ここが痛いといっている間は死んでも同じです。なぜならば、私たちは電車にのったり、自転車にのったりしている時に急ブレーキをかけると、急ブレーキのかかった進行方向に体がもっていかれるはずであります。
なぜでしょう。これは自然の法則。等速度運動です。
これと同じように私たちもまた心というものが、本当に執着と己自身の自己保存、自我我欲の心を捨て去った時には執着がありませんから、調和された世界へ抜けていきます。私はあの世へ行く時には自分の魂といいましょうか、意識が抜けていくのが全部判ります。
そうしてどこの国へ行っても皆さまの家庭でも、そくざに行って見ることができます。そういう時に心に引っかかりがあると、どうしてもそこだけ抜けないから苦しみます。ばたばたとして振動が起こります。
ところが心が調和されていますと、スーと抜けていってしまいます。
この現象は私一人なら私は否定します。ところが今まで同じ現象が私たちの周囲にいっぱい起こ
りました。
私一人だったら信じませんが、しかし現在は百人を越す人たちが、わずか一年間の間に心の窓を開いてアラハンの境地に到達しました。すなわちアラハンの姿に到達して己自身の心というものは調和され、ダイヤルがピッタリ合うようになったために、さまざまな能力を持つようにな
ったからです。
もし十人が十人同じような現象が起こったとしたならば、皆さまはこれを非科学的と言いますか。
非科学的ではありません。科学的というものは、100パーセント確かな結果が出たならば信じざ
るを得ないのであります。そうなって参りますと、私たちの心というものがいかに重要であり、そしてしかも私たちの魂はこの世を去るまでの一切を、テープ・レコーダーと同じように記録しているということを理解することができると思います。
皆さまは反省ということをご存知でしょう。反省というものは、神から私たちに与えられた慈悲
なのであります。わずか10パーセントの表面意識で人生を渡ってゆくために人間はあらゆる苦し
みや不調和なことをやっています。盲で人生を歩んでいるのです。それだからまた修行場なのです。
こういうきびしい環境の中において、私たちがはっきりと正しくものを見る毎日の生活行為をしてゆくならば、己自身の心の状態をより高い境地にもってゆくことができるでしょう。
反省というのは心で思っただけではだめなのです。そのあやまちを正し、それを行ないの上に表
わしてゆくことです。正しく思うこと、行うことが全ての基準になってきます。私の言うことを皆
さまは信じなくても結構です。神理は信ずる信じないにかかわらず必ず現われるものだからです。
皆さまは他人に嘘がつけても、自分の心に嘘はつけないでしょう。本当のことは自分の心が一番
よく知っているからです。嘘をつかない自分自身の心で、皆さまは一日思ったこと、行ったことを一つ一つ反省してみて下さい。
それを繰り返しているうちに、皆さまの心の中には自ら神の光がはなたれて参ります。反省は想念の曇りをとりはらう神から与えられた慈悲なのです。
このようにして私たちの心というものを磨いていくにしたがって、私たちは執着というものを離
れてゆきます。心は自ら丸く大きくなって参ります。
私たちは先祖に対して感謝する心を失ってはいけません。
真に先祖に対する供養の根本というものは、まず現在の皆さま自身が肉体先祖からこの肉体の舟を戴いたことに対して感謝し、健全なる肉体をつくるということです。そうして夫婦が共に明るく笑って生活できる愉快な環境を築き、お互いに嘘のない心と心の話し合いができる環境をつくることが、先祖に対する本当の供養だということを皆さまは知らなくてはいけません。
また私たちは先祖に対する感謝の心をいつも持ちながら、私たちの肉体を保存することのできる、1秒間に200万トンもの石炭を燃焼するに相当する熱・光を太陽は無償で地球に与えていることを知り、報恩という行為を果たすことです。地上の36億人(1972年当時の世界の人口)の人類に太陽が1秒間に与えているところの9.3×1022キロカロリーという約200万トンの石炭に相当する代価を平等に支払ったとしたならば、皆さまは全員破産してしまうでしょう。
これこそ神が与えられたるところの慈悲であり、愛でなくて何でしょうか。
この太陽の熱・光のエネルギーがあればこそ、地上の水を循環させ、雨を降らして植物に対して成
長のエネルギーを与えています。一方において皆さま自身の吐いた二酸化炭素は空気中に戻るとこれらは植物の栄養源となり、太陽の光を利用して光合成作用によって炭水化物や蛋白質や脂肪を作っているのです。
私たちは外から植物の澱粉、蛋白質、脂肪をとって皆さま自身の血や肉や骨にしているのです。
そうなれば太陽に感謝する、大自然に感謝する心は、ただ「有難うございました」だけで済ませ
るものでしょうか。
それは人間同志がお互いに今、生きているのだ、今、魂の修行と共に、神の体であるこの地上界に平和なユートピアをつくり、お互いに心を開いた嘘のない生活環境を築くということは、本当の神に対する、そしてまた先祖に対する供養であり報恩の姿ということになるでしょう。
これは今から約1万2千年前にアトランティス大陸において、アガシャー系グループの光の天使
たちが、人々の心に神理を説いたのも同じです。大宇宙に対する感謝の心、人々の心と心の調和によったその道を実践することにありと説いたのです。
イエス・キリストも今から二千年前にイスラエルの地において、諸々の衆生に説いた愛の道もまた同じ神理なのです。
しかしゴーダマ・シッタルダーも、あるいはまたイエス・キリストも決して宗教家ではありませ
ん。全くの素人です。私たちは素人の立場から、その神理、心と人間の問題、自然というものと信仰の関係、こういうものを掘り下げて参ります。中国から渡ってきたところの経文と、私たちが説いている科学とも全く一致するということを私は発見したのであります。
それ故に宗教と科学は不二一体である、色心不二であるということがいえるのであります。皆さ
ま自身も、今肉体と心、肉体と魂の一体の中にこそ色心不二、現代の修行があるということを皆さまは自覚して頂きたいと思います。
そして信仰は己自身の心に嘘のない生活をすることだ、そしてそれは正道の、八正道の実践行為の中に生まれてくるということを知っていただきたいと思います。
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